あとがき — 「壁」と「選択」

 放浪旅前の一人暮らしをしていた頃、精神状態のやばさがピークになった時のことを誰に教わったわけでもなく「ビックウェーブ」と言っていた。

 実際、大きな波に自分の意識がさらわれるような感じになるし、時間が経てば鎮まるところも現実の津波に似ていると思う。精神薬を服用していた職場の同僚も、同じようにやばい時のことを「ビックウェーブ」と呼んでいた。

 

 私は発達障害考察の中で、意識のコンディションを津波や砂浜の状態に置き換えることがあった。「普通の人は〝静かな砂浜〟で、自分みたいな奴は〝津波でぐちゃぐちゃになった砂浜〟だなぁ」という感じである。

 そうイメージすることがあったというだけで、考察上重宝していたわけではないが、2011年3月に起きた東日本大震災の災害報道を観ている内にその認識は変わっていった。

 津波でぐちゃぐちゃに破壊された街。

 浸水した家々。

 その状態からの復興。

 まるで、自分の人生のようだった。

 特に浸水した街とそこで生活する被災者たちの様子は、私に新しいイメージを持たせた。街が浸水すると社会機能が麻痺してしまう。それは当事者が陥る「社会性の麻痺」そのものだった。

 こうして、私の考察の中に「海辺モデル」ができあがった。以降、発達障害考察の中でこのモデルを取り出し、最終的に「静寂・津波・浸水」の3点に絞って形にした。

 

 「意識」という広い範囲でみれば脳も自分を構成する一部には違いないが、「自分」という視点から見れば脳は「他人」に等しい存在である。

 当事者が注目するべきは、その他人に意識の主導権を奪われている「浸水」状態だ。浸水は社会性の麻痺を伴う為、この境遇のまま長期活動すると、暴力的で感情的な人格意識が形成されやすい。これが、当事者たちが悪徳業者や反社会勢力と同様の手段を用いたり、犯罪に走ったり、自傷や自殺をする要因だと私は考える。

 現実の津波に対して人間が無力であるように、自分も脳の影響には抗えない。

 この現実に気がついた時、私には大きな壁が見えたのだ。


 

 人とは何か。それは言葉である。あらゆる学問が示す解答はその事実を示している。人は神と同じで、言葉の中にしか存在できない。

 私とは何か。それは渚である。海と社会の境目で引いては寄せる波形の連鎖を、私たちは「自分」と認識している。

 脳とは何か。それは海である。私の社会性を破壊する津波もそこからやってくる。ゆえに海は私ではない。津波は私ではない。

 脳は他人である。それは人ではない。そいつらは私に成りすますことがある。他人には言葉の壁が、架け橋に見えている。

『こいつらを封じ込めるものが必要だ』
 そう思った時、壁だと思っていたものが途方もない棺であることに気がついた。
 私の発達障害考察はそれがただの輪郭であることを教えてくれた。

 平穏と現実は共存できない。どちらかを選ぶ必要がある。
 私はただ、選択しながら生きていきたい。

 


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考察し、「普通」を見抜く

 自分は普通とは違う。当事者の誰もが想うことだろう。しかし、自分が思い描く「普通像」とは、本当に普通と言えるものだろうか。

 転職の末に流れ着いた警備士の職場で、私の「普通」の基準は大きく塗り替えられた。

   ◇ ◇

 警備業にはいろんな種類があり、私は「第二号警備業務」の「雑踏警備業務」に属していた。工事現場や駐車場、道路上、イベント会場など、そういう雑踏が主な職場だった。

 工事現場の世界では、ぱっと見は子供でもできそうな簡単な業務でさえ資格で管理されている。例えばクレーンで資材を吊り上げる際、フックをロープにひっかけるだけでも資格が必要となる。講習を受けたり試験に合格するなどして、「その作業を安全に遂行する為に必要な能力を備えている証」を有している人しかしてはいけないのである。

   ◇ ◇

 転職を繰り返していた20代の頃、求職時の私はいつもデスクワークか接客業を選んでいた。パソコンはできたし、接客は家業の手伝いで慣れていた。

 肉体労働系の仕事はなにかと粗暴そうで、自分には絶対に合わないと思っていた。

 人間関係云々という点では、当時の自分の社会性を考慮すれば当たっていたと思う。しかし、業務の習得や相性という点で言えば、むしろ自分には合っていたんだと今は考えている。

    ◇ ◇

 デスクワークの世界はなんでもやらされた。業務の多くは一度教えるか、教わらなくてもできて当たり前で、できないことがおかしいとされた。
 毎年数えきれない人が心身を壊して病院へ行くが、それは社会の日常とされている。
 普通の工事現場ではそんなこと起こらない。なぜなら業務が資格で管理され、ちゃんとできるとわかっている人にしかやらせないからだ。
 それは20代の頃の私が労働環境に求めていたことだった。

 複数の業者が関わるから、お互いが正しい業務をしているかを監視し合うし、現場を乱したり危険を招く者は「出禁」になる。災害が起きれば原因を究明し、二度と同じことが起きないよう同業他社含めて全国規模で共有される。

 労働環境としてどちらが「普通」で「異常」なのかは言うまでもないだろう。

   ◇ ◇

 一説によると、日本におけるオフィスワークの歴史はまだ100年程度らしい。歴史に疎い私でも、工事の歴史に比べれば浅すぎることはわかる。その業務は誰にでもできるのか、その業務に危険はないのか、まだなんにもわかっていないということだ。

 それなのに当事者も含めて大多数が「オフィスワーク」で働けることを「普通の人の証」だと思っているのだ。

 私も数年前はよく当事者会に参加していた。そこで会う人たちと職業の話をすれば、皆がデスクワークや接客業だと話していた。当事者会で肉体労働をしている人に会ったことはなかった

 つまりは当事者の多くが、「自分にはできない仕事」に就いており、その上で「障害者として生きている」ということになる。

 私はその実態に気づいた時、疑問を持たざるを得なかった。「彼らは本当に障害者として生きるべきなのだろうか?」と。

 肉体労働に就いていれば適応できた人間が、自分にはできないオフィスワークに就いて障害者として生きているとしたら、そこに疑問を感じることはおかしいだろうか。

 私自身、もし初めから警備の仕事に就いていたら、発達障害のことなんて気にしないまま生きていたかもしれないと思うのだ。


発達障害の水際対策④ — 「ライフハック」「傾聴」は症状の悪化要因

 依存症状態に陥った人格意識を回復域にする為には、なんとかして言葉を遠ざける必要がある。

 この言葉社会においてそれは大変難しいから、「遠ざけている時間を多くつくる」が現実的な選択となる。例えばジョギングなどのスポーツ、瞑想や睡眠がそれにあたる。

   ◇ ◇

 「言葉を遠ざける」とは「今の自分を基準にしないこと」と同義である。そのスタンスから言って、昨今、発達障害でも話題になったライフハックは「症状を悪化する要因」になると指摘せざるを得ない。

 

発達障害ライフハックの問題点

 

 私の改善法が問題の根から断ち意識する必要すらなくなるものであるのに対し、ライフハックとは症状によって発生する日常の「困り事1」に対して「ハック1以上」で対処することを常としている。

 症状を改善して困り事自体を無くすわけではなく、「困り事との共生」が基本方針であり、引き算ではなく足し算だといえる。

 ハックという情報要素を否応無しに多数習得することになる為、言葉の使用量は増え、それ自体が脳のリソースを消費し、心因的な負担も増加するはずである。

 困り事が解消される=楽になる、という認識がそもそも間違いだ。困り事に対する悩みも解消に伴って得られる喜びも、意識上では別物だろうが、脳にとってはどちらもストレスでしかないのである。

 人生や生活の質(QOL, Quality of Life)も下がってしまう。私が放浪旅をきっかけに得た改善法のような、「通常の社会人生活の営みの中では得られない知恵」なら広く伝わる価値があるだろう。対してライフハックとして挙げられる術はどれも「そのシチュエーションに立てば数多に浮かぶ発想の1つ」に過ぎないものだ。そういう水準のものは、自分で気がついたり家族や友人との交友の中で見つけていくことが望ましい。日常の質を維持する根拠になるのだから、それこそがQOLの向上だろう。

 しかし、ライフハックはその貴重な体験を、出版社やライター、ネットのインフルエンサーに奪われてしまうのだ。

 流行と話題により発生した熱が効果の程度を実際よりも大きく思わせていることも問題視したい「ライフハックが良いと思える理由」から「ネット交流の楽しさ」や「ビジネスとの相性」が切り離されていないと指摘する。

 これを積極的に取り入れる理由が見当たらない。少なくとも、ライフハックがただただ増えていくばかりのグループに参加している人はすぐに抜けるべきである。

   ◇ ◇

 類似する懸念として「傾聴」の性質にも触れておきたい。傾聴とは、相手の話を心を傾けて熱心に聞くことである。医療や福祉などの現場では勿論、教育やビジネスの場、家族・友人、他人の話を聞く時も、相手との信頼関係を築く上で重要な心構えとなる。

 しかし、これも人格化した依存症状を定着させる効果を生む。いわば傾聴とは「聞く洗脳」なのである。当事者がお世話になる医療や福祉の場や、発達障害の当事者コミュニティも同様の懸念を内包すると指摘できる。

   ◇ ◇

 ライフハックのことは良き文化の到来だと思いたかったが、その願いは虚しくも叶わなかった。

 余談だが、ずっと前に解離性障害(多重人格のこと)を抱えた人からお話を聞く機会があった。

 お医者さまからの助言の1つに、「症状(別人格)が出ている時のことを話題にしない」というものがあるそうだ。

 その理由を聞く機会がなかったのだが、私は自分の考察を通してその答えを知ることができたと思っている。



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