発達障害「治す」論争の行方

 ネットをしていると時々ですがSNSや掲示板で、発達障害の「治る・治せない」に関する論争を見かけます。今の私はもう傍観しているだけなのですが、昔は私も積極的に意見交換をしていました。

 今回の記事では、この発達障害の「治る」について語ってみたいと思います。特に今10代20代の人に読んでほしいです。

 「治る・治す・治せる・治せない」などの言い換えは文脈で合わせますが、違和感のあるところは適度読み替えてください。あと、神経発達症ではなく、より浸透している発達障害と呼びます。

 

私にとっての治るとは

 私にとっての発達障害が治るとは、発達障害の症状が発現しなくなることです。症状さえ出なければ良いので、脳の状態は問わないです。もちろん一時的ではなく永続的です。その永続的を維持する為に何かをしなければならなくてもOKです。もちろん、特別な意識や行動なしに症状が出なければそれに越したことはありません。

 物心ついた頃から発達障害が社会的に認知されていた世代の人には、ゆるく感じるのかもしれません。でもこれを書いている今、41歳である私の世代には特別な価値観とはいえません。なぜなら今のように発達障害が知られていなかったからです。

 若い当事者さんは自分の症状を知ったきっかけは、発達障害という医学知識が先だったのかもしれません。しかし私と同世代にとっては違います。皆さんが発達障害と呼んでいるものは人生そのものであり、その人生に対して後から発達障害という名前がついた、という順番です。

 この意味がわかるでしょうか。自分の人生を語るときに、なんのことかがわかるようにわざわざ「発達障害」という単語を使っているわけです。

 特に私は中学生のころから病識がありました。親には精神科へ連れて言ってくれとお願いしましたが、相手にされませんでした。

 私の世代は、手探りの努力でなんとかするしかなかったので、医学や福祉の標準回答からは出てこないような症状の改善法をたくさん知っています。それらを話すときには「克服」や「改善」という言葉がよく使われますが、ときどき「治す」という言葉を使う人がいます。私も文脈によっては使うことがあります。ほとんどありませんけどね。

 なぜなら、病の症状が出なくなることを口語的に「治す」と言っているからです。それだけ、発達障害の症状というものが、風邪やちょっとした病気のように身近なものであるということです。

 

実際、治せるのか?

 私は治せると考えています。著書の中でもそのようにお伝えしています。改善の条件からみて、現時点でも十分治せるグループはいますし、将来的な展望としても治せるといえるからです。

 私たちはある特徴を指して、発達障害と呼んでいます。その、なんだかよくわからない症状を対処する為に、発達障害というアプローチで向き合っているのです。

 でも私は違うアプローチを活用しています。依存症状に関する医療的知見です。

 私は長年、放浪旅をきっかけに自分の症状が改善した原因を考察していました。その営みを片時も欠かしたことはありませんでした。

 そして、症状の機序、特徴、改善の条件、再発防止、遺伝、全てに当てはまることを整理した末、それが依存症だったわけです。依存症を参考にしたら改善できたのではなく、自分の経験的療法や知見をまとめたところ、依存症の医療的知見が当てはまった、という順番です。

 ちなみに「依存症であるなら、なんの依存症なのか?」という部分ですが、それは「言葉」です。言葉自体を非物質依存の対象として扱うことで、発達障害のことが考えやすくなるのです。

 もちろん100%のカバーは無理でしょう。今の時代は発現している症状ベースでの診察が横行しているため、依存症のアプローチが通用しないグループは絶対にいます。

 でも癌の治療だって、全ての癌は治せませんが、「癌の治療法はない」とは言いません。それと同じで、発達障害の症状もその強弱を再現性をもって管理できるグループがいれば、それは「治療法がある」に相当することだと私は思います。

 

発達障害は依存症なのか?

 それは医学の定義が定めることです。ただ私は発達障害の対処を医福民が円滑に進める為にも、発達障害を依存症として扱ったほうが広いカバーで対処の難易度を下げられると思っています。

 これまで医療か福祉におんぶにだっこだったのが、民の方でも単独で初期対応が迅速になるので、健康・生活・労働面において重症化するケースを減らせることがメリットです。

 なぜなら、発達障害の対処法はまだまだ手探りですが、依存症の対処法なら一般常識でもそれなりに浸透していますし、やることは単純だからです。デメリットは、人権を無視するという倫理的な問題を除けば、特にないです。

 国や福祉がしなくても、あなたが依存症の知見を参考に、自分の発達障害の輪郭と対処法を考えることは自由に行うことができます。誰も止めません。

 

発達障害治る論争の行方

 昔は「治す」という表現に対しては異論はあったものの、もっと寛容でした。しかし、発達障害の標準回答が揃いつつあるこれからの時代、発達障害治す論争はより激化していくと思います。

 発現している症状ベースで診断の可否が決まる以上、あらゆるアプローチが症状の改善法として通用する可能性を秘めている為、自分の気がついた改善法を広めたがる人が絶えず現れるからです。その時に「治せる」と表現する人は少なからず現れるでしょう。治す、という言葉は口語的には柔軟に使われているからです。

 しかし極少数であるため、治すという言葉の開拓はいつまでも進みません。開拓されないので、治すという言葉が当たり前に使われる風潮も形成されないでしょう。言葉の意味も更新されません。

 したがって、今後も医学上の厳密な意味やエビデンス重視の考察が主流になっていくでしょう。

 それでも、これを読んでくれた方は一考してほしい。

 学説やエビデンスは、現実を理解する為のアイテムです。しかし、今のSNSなどで観測できる発達障害の考察界隈の意見を見ていると、自分の思考や行動を科学的知見の範囲に収めようとしている風に私には見えてしまうのです。それはたぶん、何にも寄与しないばかりか、発達障害の医学的進歩を阻害しています。知能テストの内容を知った人にテストが通用しなくなる、それと同様の問題が、発達障害の考察界隈でも水面化で起きていると私は思っています。

 私は24歳の時、発達障害を治す為に放浪旅をしました。思いつく限りのものをリュックにつめて、野宿をしながらひたすら歩きました。足の指の肉は靴づれでえぐれました。一歩歩くごとに思考を停止するほどの激痛でしたが、それが良かった。

 放浪旅中は言葉の使用量が減ったことにより、症状が鎮静したことを突き止めるまでに10年かかりました。その後の私は、言葉の使用量を管理することで発達障害のことを気にしなくてもいい日常を歩んでいます。

 同じ人間である以上、同じ条件を満たせば症状が治るグループが必ずいるはずなんです。それが1人なのか100人なのか10000人なのかは、やってみなくちゃわからないんです。

 もしあの頃に、発達障害の標準回答が今の時代のように揃っていたら、絶対に放浪旅には出なかったでしょう。知識が私の直感と想像力を塞いでいたことが、容易に想像できるからです。

 私は治せる・治せない、両方の回答をつくることができます。それが発達障害だからです。発達障害のことを調べて、治せないんだと結論づけるのはまだ早いと断言できます。この時代は治し方を知らないだけですし、治すの定義もぜんぜん開拓されていませんからね。

 知識とはたぶん、単純化のことです。単純化を目指す過程で、脳はわかったことを、どんどん分けていきます。今の時代はまだ、治せないということがわかったつもりになっているだけなのです。

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