続・発達障害「治す」論争の行方

 SNSなどで発達障害の話をしていると、どうしても話が噛み合わないことがある。それは以前書いたリレータイプ・フリータイプの感覚の違いによるせいかもしれないが、そもそも発達障害という言葉の受け止め方が食い違っている場合がある。

 その人の人生にとって「発達障害が先だった」のか、「病識が先だったのか」で、発達障害という言葉の使い方が全然違ってくるからだ。

 

発達障害が日本で知れ渡ったきっかけ

 日本で発達障害のことが広く知れ渡る〝最初のきっかけ〟となったのが、2000年に日本で発売された『片づけられない女たち』の本の影響だろう。アメリカで1995年に刊行されてベストセラーになった本の翻訳版である。

 この本の存在を当時のワイドショーがこぞって取り上げ、「ADHD」、「注意欠陥多動性障害」という名称を多くの人が知ることになった。この障害は多くの人の関心を引き、「ASD」、「アスペルガー」、「LD」、「学習障害」……など、他の関連症状もすぐに発見され、それまで子供だけの症状と思われていた発達障害という病気が、障害が、どうやらそうではなく、大人でも症状を抱えたままの人がいることを日本中が知ることになった。

 といっても、これがきっかけで生きづらさの解消に繋がったという人は極々僅かだろう。テレビやネットでこの障害を知り、診察に行って障害の診断がおりて、相性の良い薬かトレーニング方法に巡り合えて、症状が改善される? ちょっと想像できないね。

 それでも、自分の症状に悩んでいた人にとっては大きな一歩だった。光と闇の部分が明瞭になったからだ。

 発達障害の認知度が急速に広がった背景には、Windowsの存在もあるだろう。今でこそパソコンやスマホが一人一台の時代になっているが当時は携帯電話が主流の時代で、パソコンは家にあるとしても「親が仕事で使うから家にある」くらいの家庭がまだまだ多かった。

 ネットと繋がっていることが当たり前ではなかった時代。それでも、ワイドショーが発達障害を取り上げなくなっても、ネットの個人間のやりとりで発達障害の話題が途絶えることはなかったのだ。発達障害の認知度は右肩上がりに広がっていった。

 

病識が先だった私にとって

 私は中学二年生の頃に、いじめを受けた経験で自分の病識を持った。1997年の頃だ。中坊当時の自分が想定した他者との違いは、就労経験がなかったこともありコミュニケーション面のことが中心になるものの、成人後にネットや書籍などで知る発達障害の特徴そのものであり、中学生の頃から発達障害に相当する病識が完成していた。

 そして2003年。23歳の私はネットで発達障害のことを知る。きっかけは5〜6千万円近くもあった家の借金のことで、私が両親の飲食店と共に引き継ぐかどうかという話し合いを、借金の保証人になっている親戚の人と一緒に進めている時だった。

 自分が経営者になるという目線で親の普段の仕事を観察した時、非効率な部分があまりに多すぎて、その時、以前テレビで見た「片付けられない症候群」とかいう障害のことを思い出したというわけである。

 調べてみて驚いた。これは私のことだ。三十代〜四十代の当事者なら、私のように「自分のことが書いてある!」と驚いた人も多いだろう。
 小学生来の友人にも聞いて、それまでの自分の考察と医学知識の突き合わせをしていった。

 その時点ではコミュニケーションのことだけではなく、ケアレスミスの多さや習得力の低さも主症状として自覚していた。後に発達障害の主要特徴として挙げられる症状だ。

 自分のなんだかよくわからない病状に名前がついた。
 ついていた。
 「発達障害」というらしい。

 それから自分の症状をネットで調べたり人に話したりする時は、「発達障害」とつけて話すことが増えていった。自分と同じ境遇にいる他の人もそんな感じだった。自分は普通とは違う、ミスが多い、覚えられない……。発達障害という言葉はそんな人たちの言葉をどんどん背負っていった。

 そのうちに、発達障害という言葉を使わずに、自分の疑問を扱うことが難しくなっていった。

 病識が先だった私にとって、発達障害は自分の社会的立場を示す為に、仕方なく着る制服みたいなものになった。

 

発達障害だから、じゃないから

 私の人生は発達障害ではない。でも症状のことを調べたり、自分のことを話す時は、発達障害という言葉を使う時がある。今の時代はそう呼ばれているし、そうしたほうが、何の話をしているのかがわかりやすいからだ。

 多くの場合、何も不都合はないし、煩わしい自己紹介を短縮できる。そう考えれば便利な言葉だ。

 しかし困ることが一つだけある。それが症状の「治る」という話をする時である。

 過度なケアレスミスも、コミュニケーションも、習得の困難も、衝動性を鎮静させて足りない感覚を身につけて、そのコンディションを維持すれば改善できることを経験則として知っている。定型化である。こういう知識は、手探りの努力を強いられた私の世代には標準的なことで、何も珍しいことではない。ただ、言語化できる人が限られている、というだけで。

 定型化とは、そもそも論だが、いま発達障害の診断を受けずに定型発達側の人間として生きている人にも、診断を受ければ発達障害の診断域に該当する人なんていくらでもいる。ケアレスミスの頻度が普通の人並みになる、コミュニケーションで相手を困らせない、習得力が人並みになる。これらは前提として、ようはそのグループの中に入れればいいのである。

 別にそれが最良と言うつもりないが、少なくとも、医師の診察や治療薬を頼らずに生きづらさを解消したい人にとって、そうやって開拓された知見が貴重なものであることは間違いない。平常時の脳の働き方を変える為にベストマッチする方法を特定するのには通常、人生の大半を費やさなければならないからだ。そのエビデンスを日常の時間を少し使って、読むだけ、聞くだけで知ることができるわけだ。チートみたいなものである。

 発達障害は現在のところ、発現している症状ベースで診断が下されるケースがほとんどである為、発達障害の診断がおりたところで、その症状が改善できるかどうかは未知数である。治せるといえるグループと、治せないグループに分けられる状態だ。そもそも発達障害所以の症状だったところで、それが改善できない、治せないという根拠は何処にもない。

 発達障害のケアレスミスに悩んでいる人が集中の改善法を知り、ケアレスミスで困らなくなり、診断域から外れて、手帳の返納をしたことを「発達障害が治った」と思うのもそう他人に話すのも個人の自由である。

 発達障害の改善に関する手法や言葉を持っている私のような世代の人が、発達障害を治すという論意で話せる理由はここにある。

 自分の境遇は、発達障害というただの名称がついたというだけで、1つ1つの症状をまとめた総称でしかないからだ。発達障害の治し方は公的に定義できないのかもしれないが、その中に挙げられるケアレスミスやコミュ障、習得の困難の改善方法ならいくらでも可能性がある。

 どこかのブログの1ページにふわっと書いてある症状の改善法は、医者でもなんでもないどこにでもいる一般人の発達障害者が、社会人生活を送りながら日々改過自新を繰り返し、数年〜十数年かけて確立させたトレーニング方法で、世界的に広く知られるべき価値のある知識なのかもしれない。

 そういう情報が人知れず、あちこちに眠っているのが発達障害界隈である。

 

発達障害が先だった世代は……

 発達障害が先だった世代(本記事では話の単純化の為に2000年以降に生まれたZ世代とする)は、このあたりの認識が全く違っているようだ。自分が過度なケアレスミスをしてしまうのも、コミュニケーションがおかしいのも、仕事が覚えられないのも、全部、発達障害の仕業と考えている。

 私にとって発達障害は、先述したように識別の為に後付けされたただの総称でどこにも存在してないが、彼らにとってはキリスト教にとっての神のように、確かに存在しているものらしい。

 というのが、SNSで日夜繰り広げられる発達障害談義を日々観察し続けた現在の私の意見である。経験ベースで蓄積された体得的知識が乏しく、自分の事の大部分を医学的解答に当てはめて考えている姿勢がここまで思わせる。自分の正体を、どこの誰かも知らない人たちが定めた、明日にもまた急に更新されるかもしれない回答に当てはめているのである。

 経験ベースが基準になっている私の世代から見れば悲惨で嘆かわしいことこの上ないのだが、発達障害の認知度が急速に上がり始めた2000年以降に生まれた人にとっては、これがスタンダートな考え方なのだ。そう思うしかない。

 

背景として

 元々「発達障害を治す」という話題は、「治す」というワードに今ほど厳密な使われ方が求められるようになるまでは、「発達障害を気にしなくてもいい人生」や「定型社会への適応」という程度のニュアンスで気軽に行われていた。「治す・改善する・克服する・解消する」など、そのどれを使うかは個人の自由だし、単なる語彙力の差異でしかない。

 症状が発現しているかどうかもあまり重要ではなかった。治すといってもその人の想定しているゴールがどこなのかはケースバイケースなので、やりとりしながら情報を小出ししていき、建設的にやりとりできていけば何も問題なかった。

 SNSではなくネットの掲示板が主力だった時代はターンテイキングによる意見交換が基本だった。発達障害を治すから始まった話題の中に適職の話も普通にあった、といえばなんとなく雰囲気はわかるだろうか。「発達障害を治す」といったところでその話の広がりを縛る声は何もなかった。

 治すという言葉を「元に戻す」という辞書的な意味や、治癒と同等の意味で使うことに厳しい目が向けられるようになったのは、後発的に形成された精神である。体感的な意見だが、WindowsXPが主流になりネットユーザーがまた爆発的に増えてしばらく経ってからだったように思う。

 その頃、症状の自覚があっても診断が受けられていないグレーゾーンの人の声もネット上で目立つようになった。症状の重い当事者と比較すれば、自分はトレーニングなどでなんとかなるのでは? そう考えた人たちがネットにこう書き込むわけだ。「治す方法が知りたいです」と。

 ある頃から、「発達障害を治す」と謳って怪しいビジネスに引き込むグループ(サプリや宗教で発達障害が治るなど)の存在が問題視され、当時はまだ個人ネットの黎明期だったこともあり、文体やページレイアウト、URLなどから怪しいビジネスだと察知できないライトユーザーな情弱達が被害に遭ったりして混乱した。

 その中で、個人別の言葉のニュアンスよりも辞書的な厳密性を強要する一部のグループの論調が勢力を増していった。言葉や文意の読み替えができるネット慣れした人にとってはポカンな主張だった。そんなものは個別に判断すれば良いことだからだ。

 ただ当時は、今では死語だが「ネチケット」という言葉がまだまだ生き残っていて、ネットマナーを提唱することが今では考えられないほど日常的な光景だった。その許容されていた声に混ざる形で「治すとはこういう意味だ!」「発達障害は治せない!」と一点張りにした声が増えていったのである。

 発達障害には他人と同化しやすいタイプが多いことも、その声を強くする要因となったのだろう。あと単純に言いやすい空気があった。一体その中の何人が医学書の内容を適切に理解していたのか、甚だ疑問である。

 間違ってはいないが、正しくもない声。Z世代はこの一部の情弱の為に定着した曖昧な風潮を、主流のものとして継承してしまった世代ともいえる。

 この自然形成された風潮を基礎地盤として、いよいよ固めるきっかけとなったのが2016年のWELQ問題だろう。

 今はなき大手医療系情報サイト「WELQ」が、広告収入目当てに不確定な医療情報ページを増やしまくって検索上位を汚染し、一般市民の病気や障害に関する知識の質を低下させていた問題である。例えば自殺者の悩みに応える内容から情報商材に誘導したり、吉野家や餃子の王将でアレルギーになるなど、当時の検索エンジンが上位に表示しやすいSEO対策のみを重点に構成されたゴミのような記事ばかりだった。

 これが公に問題視されてWELQは閉鎖。後に検索エンジンのアルゴリズムも見直され、医療情報における検索結果の上位は病院や医師の監修がついたメディアの記事など、公的なものばかりが表示されるようになった。これが発達障害警察にとって追い風となる。

 発達障害を含め、病気や障害における当事者研究のようなサイトはネットの上位にこなくなった。それまで発達障害の改善のことで検索すれば上位三位以内に表示されていた私の旧ブログも、2ページ目以降においやられてしまった。

 

どちらも治そうとしている

 こうして互いの認識の差異を並べていくと、治すというワードの使い方の部分でどうしても対立関係にあると思えるのだが、まぁ実際そうなのだが、どちらも共通して「定型社会に適応できない生きづらさを解消させること」をゴールにしている。

 私のような、病識が先だった三十代四十代のミレニアル世代は、経験則をエビデンスとして症状を改善させた上で、定型社会への適応を実現しようとした。

 対してZ世代は、医療的回答に自分を当てはめて発達障害と向き合う時間を減らすことで、ソーシャルスキルの向上に集中できる時間を増やして、定型社会への適応を維持しようとしている。

 この2つのグループにどれほどの差があるというのか。
 結局、「治す」という1つの単語で認識できるかどうかの違いでしかない。

 「治す」という言葉は「元に戻る」という意味だから、「発達障害を治す、といのはおかしい」というのが発達障害警察側の主張であるが、私的には「風邪を治す」と言ったところで「風邪をひいていなかった状態に戻る」というニュアンスで言う人の方が少ないと思う。「風邪という状態でなくなればよい」くらいが普通ではないだろうか。そもそも生物の仕組みからいって「元に戻る」とイメージする方がおかしく、相手が「治す」と言ったところで「元に戻れると思っている」と脳内の認識を決め付けて声をかけるなんて、稚拙なコミュニケーションという他ない。

 

おわりに

 長々と自分視点で語ったが、症状を改善させる手探りの努力をするのと、医療情報を自分に当てはめるて済ませておくこと。選べるのであれば、医療情報をベースにすることが楽であることは間違いないと言っておく。道なき道を開拓することに人生を費やしたところで、何も成就せずに一生を終えるケースの方が多いからだ。

 それなら、発達障害に関わる数多の疑問は医学的回答で済ませておき、社会的生産性に直結することに集中した方が絶対に生きやすくなると私は念を押す。

 今はそれができる時代になった。選べる・選べないの違いは、学歴や職歴、税金の納付状況など社会情報が左右するだろう。

 ただ、自助努力で改善するしかなかった時代の人たちが、同じ今を生きていることを覚えておいてほしい。

 発達障害の公的な情報がある程度整い、怪しいビジネス情報の識別力も向上した今、過去の発達障害警察が撒いた言葉はその意義を失った。
 今ではただ人のイマジネーションに噛み付くだけの牙となって、発達障害の言葉の海を漂っている。

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