ここまで、依存症・お酒の酔い覚め・カリギュラ効果という、医療や心理の分野で用いられている知識や用語をつかって持論を述べてきたが、専門用語に頼らず説明することは可能である。単語に要約できない分それだけ文章は長くなるが。
もともと私の発達障害考察の中に、専門知識というものは存在しないのだ。
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ここまでの考察を読んで、「発達障害の書籍を何冊か読んで関係ありそうなことを並べ立てた内容だろう」と思った人はその認識を改めてもらいたい。
私が発信している発達障害考察は全て、人生を費やして日常の中で実践して得た結果が基になっている。感覚を矯正する訓練を独自に考案してケアレスミスとコミュ障を改善したこと、ギャンブル依存の克服をきっかけにカリギュラ効果の影響を認識したこと、言葉の使用量を減らして衝動性と麻痺を鎮めたこと。
関連書籍を読んで実践したのではない。先に名前がつけられない自助努力や独自考察の実践があり、後から既存の専門用語を当てはめた、という順番である。
私にとって発達障害は学問だった。
その事実を言語化してネットで公表するにあたって、他人にもわかりやすい説明を考慮した末、「一般常識や口語の範囲で用いられている医療用語なら当事者考察の価値を落とさない」と判断して取り入れることにしたのだ。
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発達障害の症状に悩み苦しみ、「普通の人の、普通の人生」を求めて医学知識の中に答えを探し求めた人は少なくないと思う。私もその一人だった。23歳の時に発達障害のことを知り、本屋に駆け込んで専門知識を買い漁った。
私が手に取ったのは『のび太・ジャイアン症候群』や新書判などの一般消費者向けの本だった。私はまず第一に「一般消費者の発達障害用語の使い方」を知ることにしたからだ。それらを10冊ほど読んで、ADHDやアスペルガー、LDなどの単語の使われ方を知った。
その後、いよいよ専門書に手を付けた。2冊読み終わったところで、自分が読むものではないな、と判断した。
学のない私は1割も内容を理解できなかったと思う。読めない漢字も多かった。文脈からなんのことを言っているかを想像しながら、なんとか通読するだけで精いっぱいだった。
それでも1つだけわかることがあった。「普通の人はこんなこと知らない」ということだ。
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普通の人を目指していた私にとって、「普通の人から遠ざかること」は避けなければならない。仮に専門書の中に普通の人になる方法が記されていたとしても、私が普通の人だと思える人たちはそんなこと知らないはずなのだ。
専門書の知識のおかげで普通の人と変わりなく活動できるようになったとしても、外界から見て普通の人でも、私の内界が普通じゃなかったら意味がない。
症状に振り回されている状態から普通の人になるには特別なスキルが必要であるとしても、その能力を獲得するまでの道筋も、あくまでも普通の人がやりそうなことの範囲に収まっていなければならない。
これはただのこだわりではない。発達障害者が普通の人になる道を歩めば自ずと決まる、ルールである。