自分は普通とは違う。当事者の誰もが想うことだろう。しかし、自分が思い描く「普通像」とは、本当に普通と言えるものだろうか。
転職の末に流れ着いた警備士の職場で、私の「普通」の基準は大きく塗り替えられた。
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警備業にはいろんな種類があり、私は「第二号警備業務」の「雑踏警備業務」に属していた。工事現場や駐車場、道路上、イベント会場など、そういう雑踏が主な職場だった。
工事現場の世界では、ぱっと見は子供でもできそうな簡単な業務でさえ資格で管理されている。例えばクレーンで資材を吊り上げる際、フックをロープにひっかけるだけでも資格が必要となる。講習を受けたり試験に合格するなどして、「その作業を安全に遂行する為に必要な能力を備えている証」を有している人しかしてはいけないのである。
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転職を繰り返していた20代の頃、求職時の私はいつもデスクワークか接客業を選んでいた。パソコンはできたし、接客は家業の手伝いで慣れていた。
肉体労働系の仕事はなにかと粗暴そうで、自分には絶対に合わないと思っていた。
人間関係云々という点では、当時の自分の社会性を考慮すれば当たっていたと思う。しかし、業務の習得や相性という点で言えば、むしろ自分には合っていたんだと今は考えている。
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デスクワークの世界はなんでもやらされた。業務の多くは一度教えるか、教わらなくてもできて当たり前で、できないことがおかしいとされた。
毎年数えきれない人が心身を壊して病院へ行くが、それは社会の日常とされている。
普通の工事現場ではそんなこと起こらない。なぜなら業務が資格で管理され、ちゃんとできるとわかっている人にしかやらせないからだ。
それは20代の頃の私が労働環境に求めていたことだった。
複数の業者が関わるから、お互いが正しい業務をしているかを監視し合うし、現場を乱したり危険を招く者は「出禁」になる。災害が起きれば原因を究明し、二度と同じことが起きないよう同業他社含めて全国規模で共有される。
労働環境としてどちらが「普通」で「異常」なのかは言うまでもないだろう。
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一説によると、日本におけるオフィスワークの歴史はまだ100年程度らしい。歴史に疎い私でも、工事の歴史に比べれば浅すぎることはわかる。その業務は誰にでもできるのか、その業務に危険はないのか、まだなんにもわかっていないということだ。
それなのに当事者も含めて大多数が「オフィスワーク」で働けることを「普通の人の証」だと思っているのだ。
私も数年前はよく当事者会に参加していた。そこで会う人たちと職業の話をすれば、皆がデスクワークや接客業だと話していた。当事者会で肉体労働をしている人に会ったことはなかった
つまりは当事者の多くが、「自分にはできない仕事」に就いており、その上で「障害者として生きている」ということになる。
私はその実態に気づいた時、疑問を持たざるを得なかった。「彼らは本当に障害者として生きるべきなのだろうか?」と。
肉体労働に就いていれば適応できた人間が、自分にはできないオフィスワークに就いて障害者として生きているとしたら、そこに疑問を感じることはおかしいだろうか。
私自身、もし初めから警備の仕事に就いていたら、発達障害のことなんて気にしないまま生きていたかもしれないと思うのだ。