発達障害は脳機能の障害なのだから、症状のことは医療を頼り、仕事や生活のことは企業や行政の福祉を頼ればいい——
発達障害の認知度が高まった今の社会は、そんなライフスタンスでも当事者たちが生きられるシステムを整えようとしている。
平成生まれの人にとっては当たり前のことかもしれない。
昭和58年生まれ、発達障害の無認知時代を生きてきた私にとっては、時代の一幕である。
ただ、時代は変わっても、個人が指針としていたライフクオリティはそう変わるものではない。
私の場合、それが「普通の人のように生きること」だった。
中学生の頃、自分自身の異常性を自覚した私は「普通の人になれなければこの社会では生きていけない」と強く思った。当時の私にとって、自分が陥った境遇は「式」であり、「解」だった。
私が想定した「普通の人」とは、サザエさんでいうならマスオや波平、クレヨンしんちゃんなら父ちゃん、ドラえもんならのび太のパパ、といったアニメや漫画の主人公によくいる父親像が基準であり、「特別な能力を持たないオフィスビルの中で働く会社員」の姿だった。
その人生の軌道に乗ることは、単純そうに思えてとんでもなく難しいことだった。他の人が無意識に維持しているスキルの正体を、手探りで突き止めて会得する。ただそれだけの為に、人生の大半を費やすことになった。
これがとんだ思い込みであることを知ったのは30歳を過ぎてからだった。オフィス業務というものは誰にでもできる仕事ではなかったのだ。
それから「なにを以って普通の人とするのか?」、その疑問と向き合うことになった。
答えを教えてくれたのが、人生をかけた発達障害考察だった。
31歳の時に発達障害の診断(アスペルガー障害)を受け、それからの私は当事者会に参加するようになった。自分と同じ症状に困っている人に会えることは最初こそ喜びや安堵を得られたが、次第に疑問の方が強まっていった。
発達障害というものは、ちょっと会話をした程度ではそれとわからない程度が共通認識だと思っていた。が、当事者界隈の実態は違っていた。当事者会の参加者には、圧倒的に精神障害者が多かった。
発達障害はその境遇故、多種多様な症状の併発は避けられない。その中に精神疾患症状があってもおかしくない。それは理解できる。でも納得はできなかった。わざとかと思えるくらい不自然な声のトーン、喋り方、振る舞い。到底、自分と同種の障害症状だとは思えなかった。そういった特徴の中には、自身が普通の人を目指す過程で改善できた症状もあった。
その体験があるせいか「向精神薬を使ってもこんなんでは意味がない」と思うしかなかった。
発達障害の無認知時代、自分のなにがどうおかしいのかを全てを手探りで決めてかからなければ前進できなかった私にとって、発達障害の認知度の高まりに伴って広がった医療や福祉との接点は本来、追い風となるはずだった。精神科や福祉などの行政を頼れば、自分の異常なところを専門的見地から指摘してもらえると思った。
でも現実は違った。医療や福祉は日常感覚からみればおかしな言動を前にしても、その特徴を指して「普通ではない・異常である」と指摘する機能を有していなかった。
私は18歳の時、人間関係を学習しなおす為にネットを始めた。予想通り、インターネットはとても都合がよい世界だった。ネットに飛び交う忌憚のない言葉から、ライフクオリティに直結する質の高い学習をすることができた。
私の取り組みは「他人の嫌悪感を学ぶこと」だったといえる。それは確かに、日常でしか学習できないことだった。
私が知りたかったことは「人権」という鉄壁の奥にあり、無法地帯の世界だからこそ学べたのだ。これも30歳を過ぎて、やっとわかったことである。
しかし、近年の誹謗中傷対策の強化に伴い、この学習法がこれから先の時代にはできなくなることが想定される。
だからこそ、この「当事者考察」という文化を絶やしてはならないと私は考える。「普通の人になる」という願望は、当事者個人が道を切り開いて獲得するしかないのである。