自分が普通ではないと理解した私は、普通の人になる為の方法を考えることにしたのですが、自分の両親は創価学会という宗教の信者であることがとても気になりました。『宗教なんてしてる親に育てられた自分の脳は、言動と思考が根本から普通ではない可能性がある。今の自分が考えたことや行動はなにも当てにするべきではない』と判断しました。
そこで、全ての行動に「なぜ?」「なぜなら」と自問自答することを繰り返し、今後は『自分は普通ではないと認識できている今の自分の〝検閲〟』を通過したことのみ、当てにすることにしました。
例えば、
Q.「なぜ目をあけた?」
A.「目をあけないとなにも見えないからだ」
Q.「なぜ起き上がった?」
A.「起き上がらないと学校へ行く準備ができないからだ」
Q.「なぜ階段を降りた?」
A.「一階に行くには階段を使うしかないからだ。屋根を降りるわけにはいかない」
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といった風に、全ての行動を細かく分割して〝点〟で認識し、脳内で検閲を行いました。二週間ほど経った頃には、検閲を通していないことを探すくらいにはやりきったので、取り組みを終了しました。
この効果は大きく、将来的に基準となる人格の叩き台が意識内に形成できたのと、検閲を通して当てにできる言動を自分で決めていく過程で、検閲を通していない言動をしてしまう頻度が激減しました。非定型言動のことです。 想像上の普通を意識し続けて抑止するより脳への負担も少なく、良い方法だったと思います。
あと、「なぜ?」(Why)だけではなく「なぜなら」(Because)までをセットで考えていたことは、その後の人生を左右するほど大切なことだったと思います。取り組みを終了した後も、平常時の意識として「Why」から始まり、「Because」まで考え抜くことが当たり前になりました。
そして、中学生の間に言動から生じるリスクを意識できるようになりました。言動から生じるリスクとは、例えば、〝面白いことを言えば笑う人がいるかもしれないけど、うるさいと感じる人もいるかもしれない、それだけで嫌われるかもしれない〟といった、人の嫌悪感を考慮した上で、他人の意識に起きる変化を想像する感覚のことです。
この頃はまだ周囲全体をざっくりイメージできる程度で、「あの人はこれが嫌い」といった、一人一人の反応を想像できるまでの レベルではありませんでしたが、この感覚も言動を自重する上で支えになってくれました。