とにもかくにも、いじめ状況をなんとかして止めようと思いました。
記憶を辿ったところ、いじめ行為をされるのはいつも、自分がなにかを喋ったりなにかをした後だった気がしたので、まず誰とも喋らず、なにもしないように努め、それでもいじめ行為をされるのかを確かめることにしました。そのうち先生や同じ班のクラスメイトから「なんで喋らないの?」と聞かれましたが、一切返答しませんでした。
この取り組みを2週間ほど続けたところ、推測通りなんにもされなくなったので、〝自分に対するいじめ行為は、自分の言動がトリガーになっていたこと〟を確認できました。それまで自分がいじめだと思っていた状況は、なにもしていない自分が攻撃されているのではなく、私のやったことに対する反応であり、それらは私に対する注意や怒り、防御だったのです。
その後、自分の言動を自重することにより、いじめのストレスから解放され、学校にいながらも今後のことを落ち着いて考えられる日常が得られました。この体験があるから、私は「自分の力でいじめを解決した」と言えます。
やり始めた頃は、悪いものに屈したようなざらざらとした気持ちが膨らんでとてもストレスを感じましたが、「みんなが自分のせいで嫌な思いをしている」という気持ちを強く意識して辛抱しました。
これはいじめを解決する為に必要な取り組みだったと今も思っています。口を開けばすぐに衝動性に振り回された言動が出てしまったでしょうし、注意魔だった私はそれまで「駄目なのは周りなのだから、周りが変わるべき」という向き合い方をしていました。
当時の私はこの取り組みの効果により、自分を変える必要があることと、周囲を変えるより自分を変えることの方が早くて確実であることを、中学生の内に理解することができました。
中2の三学期になってからこの規制は少しずつ緩和し、前から普通に喋れた相手とか、自分の席の近くの人とだけは話すようにして、自分の言動が普通の範囲に収まっているかどうかを気にしながら生活しました。日常の全てはこの検証の意識を背景に置いて過ごしました。
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いじめ問題の話になると、過去の私のように「いじめた側が悪い」だけで頭が一杯になってしまう人がいます。会話ができないレベルです。
私は何度かネット上でこのいじめ体験の話をしたことがあります。「いじめ行為をされる条件を特定して、いじめ行為を受けないようにして、落ち着いた状況をつくってから考えましょう」という主張なのですが、この意見はいつも「いじめた側が悪い」とばかり主張する人に叩かれてしまうのです。
いじめる相手を追求するにしてもなんにしても、とりあえずいじめられない状況にしてからの方がいいと思うんですけど、叩いてくる人たちに言わせると、私の考え方はいじめの味方をすることになるんです。
私はいじめられていた頃、とにもかくにもいじめをやめてほしいと思っていました。その気持ちに応える考え方が、いじめの味方になるわけがないんです。
こういうやせ細った意識が一定数に形成される背景には、メディアの煽りも関係あると思います。風邪をひいたら寝て休むことが当たり前のように、いじめが起きたら当たり前に行う対処法が広まるべきです。私からは、とにもかくにも言動を自重してみることを推奨します。